2012年 10月

一本杉通りは’茶の間の観光’「ふれあい観光 語り部処」が特徴です。見る観光ではなくふれあい観光です。
語り部処を訪れて、主人、女将さん、従業員、おばあちゃんの目線での語りを聞き楽しむ観光です。
ゆっくり堪能コースで半日、短くても1時間半は欲しいです!
体験コースもあり、楽しみいっぱい!
お問い合わせは:情報処しるべ蔵 電話:0767-52-1231
七尾市観光交流課 電話:0767-53-8424
[ 語り部処マップ ]

[ 一本杉通り体験処 ]

七尾市内駐車場マップ

[御祓川沿い観光バス停車・降・乗車場マップ

一本杉通り花嫁のれん展 開催!
期間:毎年4月29日~(母の日) 会場:一本杉通り
明治、大正、昭和の年代ものから現代もの、友禅作家もの140枚以上

 

<花嫁のれん>
加賀・能登の庶民生活の風習の中に生まれた独自ののれんで、幕末から明治時代        初期のころより加賀藩の能登・加賀・越中みられる。
花嫁が嫁入りの時に「花嫁のれん」を持参し、花婿の家の仏間の入口に掛け、玄関        で合わせ水の儀式を終え、両家の挨拶を交わした後、花嫁がのれんをくぐり祖先の        ご仏前に座ってお参りをしてから式が始まる。この時に赤または金色のろうそくを灯し        ます
その後、「花嫁のれん」は新婚夫婦の部屋の入口に掛けられる。三日目にお部屋見        舞いの仲人や親戚の女性たちが集まり、花嫁持参のお道具や衣装を拝見に来るお         祝い客があるので、これら来訪者のたみに掛けておくという。
現代では風習・しきたりを重んじる地域や旧家、石崎奉燈の祭礼の時には、欠くこと        のできないものとして家々に引き継がれている。
雑誌「銀花」に花嫁のれんが特集になりました。⇒[ 雑誌「季刊銀花」 ]
花嫁のれん展地図
「第二回花嫁のれん展」から
浅井家 明治42年 雪輪陰蔦 松に二羽鶴 横井家 昭和12年 雪輪州浜 桜・雉 小田家 明治末雪輪略式紋松に夫婦鶴

[ 第一回花嫁のれん展 ] [ 第二回花嫁のれん展 展示マップ ]


ここから一本杉通りです!!

 「仙対橋」
一本杉通り入口の目印 朱色の橋です
七尾駅から歩いて来ると見えます
(能登共栄信用金庫前から撮った写真です)
「一本杉通り」
仙対橋から見た一本杉通りです
ここから約450mあります

13軒の語り部処があります
ゆっくり訪れてそれぞれのお話を楽しんでください
 「一本杉公園」
竹炭埋炭公園第一号
一本杉通り中程にあります真ん中に直径1m、深さ1mの穴に約90kの竹炭が
埋炭されています。半径15mがマイナスイオンで
いっぱいです。公園でいっぷくしてください。
一本杉通りの赤い毛氈の掛かった床几にも竹炭が入れてあります。

一本杉通りを歩くだけマイナスイオンで癒され元気が出ます。
<登録有形文化財>
「勝本邸」 明治30年頃 木構造二階建(腕木構造)
明治末の大火以前の伝統的な七尾町屋の風情を伝えており、内部の吹き抜けに見る骨組みや雰囲気など保存状態は良好である。
     

 

<登録有形文化財>
「北島屋茶店」 明治37年頃 木造二階建(腕木構造)
明治38年の七尾の大火を免れた数少ない建築物であり、伝統的な腕木構造を伝える典型的な七尾町家である。
明治37年頃、回船問屋であった津田嘉一郎が別宅として建築。後に弁護士北林弥三  次郎が購入し、弁護士事務所を開設する。昭和8年、子息敏雄が北島屋茶店を創業   し現在に至っている。

 

<登録有形文化財>
「多田邸 旧上野啓文堂昭和7年頃 木造二階建 (看板建築)
万年筆の形態を造形化したユニークな外観を持った看板建築。創業者上野啓による デザインと伝えられる。昭和初期の七尾における近代建築の象徴的な建物である。
昭和7年、金沢で万年筆の修業を終えた上野啓が万年筆・文具店を開業。戦時中は        出征する多くの学徒が万年筆を買い求めた。昭和37年閉店する。

 

<登録有形文化財>
「鳥居醤油店」 明治41年 木造二階建 土蔵造
藩政時代から商家として和菓子製造を営んできたが、明治38年の七尾の大火で消失明治41年に再建された現存する土蔵造の七尾町家の数少ない一つである。
代々、大森屋の屋号で和菓子屋を営んできたが、明治44年、鳥居長助が引き継ぎ鳥居花鳥堂となる。 大正14年、子息定吉が醤油製造業に転業し現在に至っている。

 

<登録有形文化財>
「高澤ろうそく店」 明治43年 木造二階建 土蔵造
明治38年の七尾の大火後に普及した土蔵造りによる七尾町家で、その典型的な形 として重要である。重厚で情緒ある土蔵造りは、現存する数少ない一つである。
明治25年、高澤浅次郎がろうそく店を創業。信仰風土の篤い地元北陸をはじめ、全国に和ろうそくを納めている。平成8年、店舗二階にろうそくミニ博物館を開館する。 

一本杉通り語り部処
語り部処の看板が掛かっています ご自由に訪れ、楽しいひと時を過ごしてください
(語り部不在のときはご容赦下さい)
[ 語り部処マップ ]

 

「勝本邸」(リフォーム前田)
文化人の育った家:杉森久英(直木賞作家)・勝本柏宇(俳人ホトトギス同人)
勝本冨士雄(モダンアート作家)  *気軽にお立ち寄り下さい




 

「北島屋茶店」

一本杉通り町おこし / 花嫁のれん / お茶のお話
江戸時代の茶磨で抹茶を挽き体験 / 挽き立ての抹茶を七尾名物大豆飴にかけて味わい / 挽き立ての抹茶を自分で点てていただく (¥500.-)

お茶は自然の味に徹し本間もん販売一筋
オリジナル手ぬぐい販売

「中谷内陶器店」

おいしいごはんの炊ける土鍋や普段使いの器のあれこれ
可憐な山野草などの花談義

オリジナル手ぬぐい販売

「お食事処宅蔵」

ざる 茶そば     ¥600.-
旬 天婦羅定職   ¥1,200.-
七尾名物茶碗豆腐 ¥100.-
ごゆっくりおくつろぎ下さい   要予約 ℡0767-52-0609

[お食事処宅蔵]

「御菓子処花月」

創業111年・明治39年築の店舗で今3代目です。松林図よりイメ-ジしたお菓子
松林とお茶を召し上がって下さい。

[御菓子処花月]

「鳥居醤油店」

杉樽を納めた明治時代からのもろみ蔵・糟・和釜など先陣の知恵を受け継いだ道具の説明と醤油づくりのお話をさせていただきます。
オリジナル手ぬぐい販売

[鳥居醤油店

 

「ぬのや仏壇店」

作業(制作)見学・・・仏壇、神輿、奉燈(ほうとう)等
箔押し体験(要予約℡0767-52-0756)所要時間15分位・料金1件¥500.-(ペンダントトップ) 仏壇の話等
オリジナル手ぬぐい販売

 

「昆布海産物処 しら井」

北前船の寄港地七尾の昆布屋で昆布ロードと昆布のお話。職人による手削りおぼろ昆布の実演(要予約℡0767-53-0589)の見学が出来ます。
「ミニギャラリー玉藻」 1階
オリジナル手ぬぐい販売

 


 

 

「高澤ろうそく店」

どうぞごゆっくりの看板が目印です。ラベンダーティーでごゆっくりしてください。
当店ろうそくミニ博物館2Fでろうそくのお話をします。

オリジナル手ぬぐい販売
[高澤ろうそく店]

 


 

「きもの処 凛屋」

本業はきもの屋ですがお客様のきものの染抜き・お手入れの全般を行って降ります。
何時何処で買われたおきものでも着用できるように致します。お持ちいただければ見積は無料です。
四季折々の山野草も見どころです。
*花嫁のれんの常設展示しております。

 


 

「呉服・洋装 松本」 創業101年、親子4代にわったて受け継がれている伝統的な店
多種多様な服地と呉服、センス豊なオリジナル商品をそろえております

 


 

「高澤勇吉商店」

昭和10年代(戦前、戦中、戦後)の旧市内・町並の移り変わりのお話など

 


 

「戸田時計店」
デカ山の木遣り(音頭)を聞きませんか!でか山の橋前(橋舞)の話を聞いて下さい
(仙対橋の西詰にあります)

 


一本杉通りの「おみやげ」

 



北島屋茶店
能登七尾名物
「抹茶大豆飴(まめあめ)
「ふりふり」 ¥300.-/袋(送料別)
大豆飴は飴にあらず、黄粉と水飴を原料に作られたお菓子です。
その大豆飴に手挽きの抹茶を振りかけて戴く、大人の味の醍醐味です。
お茶屋だからの発想です。手挽きの抹茶を振りかけて袋詰めしました。袋ごとよく振ってお召し上がり下さい。

 

最初に「花嫁のれん」とは
加賀・能登の庶民生活の風習の中に生まれた独自ののれんで、幕末から明治時代初期のころより加賀藩の能登、加賀、越中に見られます。花嫁が嫁入りの 時に「花嫁のれん」を持参し、花婿の家の仏間の入口に掛け、玄関で合わせ水の儀式を終え、両家の挨拶を交わした後、花嫁がのれんをくぐり先祖のご仏前に 座ってお参りをしてから結婚式が始まります。
その後、「花嫁のれん」は新婚夫婦の部屋の入口に掛けられます。三日目にお部屋見舞いの仲人や親戚の女性たちが集まり、花嫁持参のお道具や衣装を拝 見に来る祝い客もあるので、、これらの来訪客のために掛けておきます。現代では、風習・しきたりを重んじる地域や旧家、石崎奉灯祭りの祭礼時などに欠くこ とができないものとして家々に受け継がれています。

「花嫁のれん展」の開催は、一本杉通りのまちづくりに、Oh Godの会(一本杉町の5人の女将さんの会)のメンバーの発案で平成16年4月始まったものです。
三十数年ここ一本杉通りも、大型店、郊外店の影響で衰退していました。一本杉通り商店街振興会でもいろいろイベント等をやっては来ましたが、他の多くの商店街と同じく再生の力にはなかなかなりませんでした。

ところが、たまたま平成15年12月3日、Oh Godのメンバーのみなさんのご縁で、森まゆみさんのお話を聞く機会を得て、一本杉通りに登録文化財を点として登録して、まちづくりをしたらとヒントを与えられそれを早速実行に移したのが始まりでした。
450メーターの通りに4軒文化財に申請することになりました。これも幸いなことに、福井工業大学の市川秀和先生が七尾の町屋を5,6年調べておられたことです。

<登録有形文化財>
高澤ろうそく店 鳥居醤油店 上野啓文堂 北島屋茶店

   さて、一本杉通りに、4軒の点ができました。まちづくりにこれを線・面的展開をしなくては再生が無く頭を痛めていました。そこに、Oh       God の会のメンバーによる「花嫁のれん展」の提案でした。
この提案を聞いた時、長年お金をかけてイベントをやって来た経験からして、お金がかからない、手間がかからない、ゴミが出ない、のれんを掛ける棒、 と古着の花嫁のれんがあれば出来るイベントで、客が通りにやって来なくてもとにかく気分的に樂であると考えた訳です。

早速、町会の仕事として、協力願いの回覧板を廻し、Oh Godの会のみなさんが手分けして町会
72軒のみなさんに協力をお願いして回り、32軒の賛同を得ることが出来ました。

第1回は平成16年4月29日から母の日、5月8日まで開催することになり、花嫁のれんの数は52枚になりました。借りれば、貸してくれた人だけでも一本杉通りに見に来てくれるだろうと21枚を借りることになりました。
のれん展示場所表示は赤い毛氈を掛けた床几を各展示している店・家の前に置くことにした。町会みんなで、これらの床几に竹炭を1キロ入れて作ったも のです。通りを訪れることによりマイナスイオンを浴びて癒され元気になっていただくびが一本杉町からのお土産です。

玄関に 二階の窓に 店内に 毛氈を掛けた床几

   竹炭は、一本杉通りの真ん中にある「一本杉公園」に90キロ埋め「竹炭埋炭公園」として、マイナスイオン一杯の公園を町会みんなで作りました。町会のみなさんはむろん。一本杉通りを訪れるみなさんに元気になってもらうことを願っています。

一本杉公園 竹炭90キロ埋炭

   「花嫁のれん展」は、予想をはるかに超える人出があり、特に女性のおとずれがあり、主催者の私たちが びっくりして、花嫁のれんの語り部にただただ熱中し、商売を忘れ、家事を忘れ、10日間が終わり、どれ位の人出であったのか通りの賑わいの写真など一人と して記録に撮った人も居ませんでした。何とか展示の写真だけ撮ってあったのは幸いでした。「花嫁のれん」はまさに、女性の宝物であった訳です。

第二回は平成17年4月25日から5月8日まで、七尾美術館の長谷川等伯の「松林図」屏風の特別展示に合わせ開催しました。第一回目を参考に文化出 版社が季刊誌「銀花」に、花嫁のれんの24頁に及ぶ特集を組み、2月に発刊していただいたお陰で「花嫁のれん展」が全国版になることになりました。
北は北海道、南は九州から、「銀花」を片手に実物を見たいとたくさんの女性郡に一本杉通りを訪れて頂きました。これもOh       Godのメンバーの人脈交流によって取材をしていただいたものです。

季刊誌「銀花」 賑わい 賑わい

   ここにもう一つ、このイベントを盛り上げる協力者が現れたのです。4月29日一本杉通り商店街のメン バーで結婚式があり、一本杉通りで花嫁道中を行うのに協力を得ることになった訳です。さらに、この花嫁道中を盛り上げるのに、国指定有形・無形文化財ので か山保存会の協力を得て、木遣歌で道中囃して頂きました。当日は朝からたくさんの人たちがひと目みたいと通りが大混雑しました。

合わせ水儀式 道中木遣の囃子 花嫁道中

   第二回は一本杉通り振興会も元気になり、「花嫁のれん展」開幕式も、七尾市長の参加も得て開催することになりました。同時に一本杉通りの石灯も51基完成しその除幕式も行われ、開催に花をそえたのと、石灯が通りのムードを一段と盛り上げました。

開幕式挨拶 開幕式のれん開き 石灯完成

二回目になると、結婚式以来、日の目を見たことの無い花嫁のれんを箪笥の中から探し出した人たちが飾って欲 しいと持参され、当初75枚くらいの展示と予想していたものが、104枚にまで膨らみ、展示場も46軒と増えました。実際、市内だけでも2万数千世帯あり ます、この内三分の一の世帯の人が持っているとしても、毎回100枚飾ってもしばらくは珍しいものを展示できることになります。明治、大正、昭和と年代 物、あるいは現代友禅作家ものと、街なかで風にゆれる花嫁のれんを見るのは、何物にも変え難い楽しみです。

期間中5万人にも及ぶ人出となり、のれんの提供者、展示する人、見学に来る人たちと三者が楽しめるイベントとんさりました。今は普段でも観光客を迎 えることになった一本杉通りでは、花嫁のれん展の経験を踏まえて「語り部処」15軒を設け、それぞれにお客様に楽しんでいただく語り部をしています。
花嫁のれんは、2軒の呉服屋さんに常時展示して語り部役を務めていただいています。

お陰で、朝日、北国、北陸中日、読売等、各新聞社、NHK,TBS,MRO,テレビ金沢、石川テレビと文化出版局やプレジデント社等雑誌に取り上げていただき能登の七尾・一本杉通りが全国版になりつつあります。
今では、能登空港も開港して能登は関東圏になった訳で関東からの一本杉通り観光が増えてきています。現にこの大雪にもかかわらず連休に千葉、東京とハイヒールを履いて若い人たちが、一本杉通りを訪れてみえると、まさに関東圏だと実感するこの頃です。

第三回「花嫁のれん展」の準備にかかっています。花嫁のれんは常時展示の難しいものです。一つはほとんど洗濯ができないことで取り扱いに注意が必要なことです。梅雨前の快適な時期に虫干しも兼ねるこの一本杉通りの「花嫁のれん展」は最適と言えるものなのです。
過去2回の反省に基づいて、より訪問客には楽しんでいただく企画をしたいと考えています。第二回には期間中、各自趣向を凝らし絵と俳句親子展、手づくり和 紙展、手づくり人形、帽子、バッグなどの作品展と盛り上がり、これらの趣向は増やしていきたいものです。案内所や休憩所もさらに充実させるなど、これから 会合を重ねながら、素晴らしい第三回にしたいと胸を躍らせています。皆さんに楽しんでいただくことに自信を得て毎年4月29日から母の日まで開催すること に決定しました。

明治時代の芝居小屋「でか小屋」の再生に向けて(概要)

でか小屋再生おせっ会                                               事務局 鳥居貞利

七尾市府中町に現存する明治時代の芝居小屋「でか小屋」は、七尾市が全国に誇れる貴重な歴史的文化遺産です。
おせっ会は、中心市街地の活性化を図るため「でか小屋」を観光資源として、また、市民のための文化施設として活かしていくことを目指して、平成16年8月市民有志によって結成された会です。

1.おせっ会の活動
・小屋清掃の実施
・市民へのPRのため落語会や素人歌舞伎公演など開催
・調査(文献、建物)
・再生基金確保のため募金活動実施(一円玉募金)
・全国の芝居小屋関係者との交流

2.でか小屋の歴史
建設時期  明治初期から中期の間
廃館時期  明治26年、作事町有志による歌舞伎興行を最後に廃館
廃 館 後  莚(むしろ)倉庫に転用
舞台や花道、桟敷席などの劇場機構が撤去される、小羽(こば)葺き屋根を
瓦屋根に葺き替えられたため、建物中央部に補強柱が入る。
戦時中、現市道1号線拡幅のため正面3間分(推計)が取り壊される。
昭和35年以降、木工製作所、神棚制作・メッキ等の工場として使われる。
現在、倉庫として使用。

3.でか小屋の特徴・希少性
構  造   伝統的な和小屋(貫構造)
現存する芝居小屋の大半は洋式(トラス)工法の小屋。
確認されている和小屋は、天保6年建設の金丸座(香川県)のみ。
資  材   和釘(四角釘)を使用(明治中期以降は洋釘が使われるようになった。)
使用用途  商業用の芝居小屋
商業用芝居小屋は商業都市や港町など活力のある町にでき、旦那衆が
スポンサーになった。港町で残っているのは「でか小屋」のみ。

4.全国の状況
現存数   芝居小屋は、全国で2,000館以上造られたと言われているが、現存しているのは
23館のみ。(復元整備されていない小屋を含む)
復元整備され活用されている主な芝居小屋は、
康楽館(秋田県小坂町)、ながめ余興場(群馬県小間々町)
金丸座(香川県琴平町)、内子座(愛媛県内子町)
嘉穂劇場(福岡県飯塚市)、八千代座(熊本県山鹿市)

5.でか小屋の活用策
観光資源  伝統様式を備えた芝居小屋として復元し、フルシーズン観光客が見学できる
施設
文化施設  市民サークルの発表や学校の課外活動、市民団体等が主催する公演会場
など、市民の文化活動の拠点として活かされる施設。

6.おせっ会が目指す中心市街地の活性化策
(1)交流人口の拡大
観光資源として「でか小屋」を活かしていくため、他の資源と一体になった活用
策を検討中。
①七尾固有の資源の活用と開発(歴史と文化)
城下町としての街並みと町割り(商人街と職人街)、城址、寺院群、
港町文化(北前船)とでか山)
町屋(国登録有形文化財)
②商店街との連携
中央通り、七尾駅前通り、一本杉通り、東部など中心市街地の商店街
③他施設、他団体との連携
食祭市場、駅前再開発ビル、まちづくり団体など
④和倉温泉との連携
(2)市民の利便性の確保
中心市街地の賑わいは、空洞化が防止され市民の利便性が確保される。
施設の集中化(コンパクトシティづくり)

(註)トラス:各部材の接合点を連結し、三角形の集合形式に組立てた構造。
湾曲力に強く、橋や屋根組みに用いられる。

<明治の芝居小屋「でか小屋」再生に向けて>

一、はじめに
北陸地方はもとより、日本海側沿岸で唯一残されてきた芝居小屋「でか小屋」は、スギヨ本社前の市道1号線沿いに建っている。 外側は、倉庫風のトタ ン張り小屋のため、見逃してしまいそうであるが、明治時期に建てられた芝居小屋である。中に入ると芝居小屋特有の空間が展開される。舞台や桟敷席などは取 り払われてしまっているが、骨組みは当時のままの状態で残されており、往年の豪華さが偲ばれる。

でか小屋は、芝居小屋としての役割を終えると、海運倉庫として、鉄(木)工所として使用されてきたため、市民の目に触れることなく、百数十年間、 ひっそりと残されてきた。三年前、七尾市広報(平成14年5月号)で紹介されてから市民の関心をひくようになったが、当時は、調査が十分にニ進んでいな かったために「松尾座」として紹介されている。その後、七尾市教育委員会文化課から調査依頼を受けた福井工業大学の市川秀和氏の調査(平成15年8月号) により、「でか小屋」であることが判明した。

明治期、芝居見物は、民衆の最大の楽しみの一つであったが、その場である芝居小屋は、どんな経緯を辿りながら造られていったのか検証してみることにする。

二、芝居小屋の変遷
①芝居小屋の興り
現在、でか小屋に関する史料はほとんど残されていない。どんな経緯を辿り、誰が何時造ったのか不明のため、日本における芝居小屋の変遷をみることで推測したいと思う。
現在の建築様式を備えた芝居小屋は、歌舞伎の確立とともに発展していく。江戸開府時、出雲の阿国が京都でかぶきおどりを始めたのが歌舞伎も起源とされ、幾多の変遷を経て、元禄期、現在の歌舞伎の原型である野郎歌舞伎となって華開いていく。
当時の芝居小屋は、本舞台と東西の桟敷に藁葺きの屋根がかかり、周囲を板囲いしたもので、舞台全面の客座には屋根がないため雨天には興行ができな かった。全蓋式の小屋が出現するのは、享保年間(1700年前期)に、「瓦屋根、塗壁造」を条件として幕府が許可してからである。以後、花道や回り舞台や スッポンなど機能が整備され、歌舞伎劇場として完成していく。
一方、地方の芝居小屋は、この江戸や大阪の各座を参考に、幕末より全国各地に建てられ始め、戦前には全国に二千以上の芝居小屋があったといわれている。
しかし、大衆娯楽の中心が芝居から映画に移ると、ほとんどの芝居小屋は、映画館に機能を変え運営されていく。その映画館も、テレビの普及により映画が 衰退し、廃館の道をたどることになる。廃館に追い込まれた芝居小屋のほとんどは、二度と使われることなく放置され、そして荒れ放題になり、最後は朽ち果て ていった。昭和三十、四十年代の出来事である。そんななかで、かろうじて取り壊しを免れ、残されてきた芝居小屋は、全国で二十館程度にすぎない。

②芝居小屋復興の動き
現存する芝居小屋のほとんどは、いったん廃館となったが住民の復興運動により行政を動かし、蘇ることになった。
現存する最古の芝居小屋、香川県琴平町の金丸座が建造されたのは天保六年(1835年)である。
門前町として賑わいを生み出してきた金丸座であるが、大衆娯楽の変化により映画館に機能を変え、細々と経営を続けることになる。このため、芝居小屋として の機能は廃墟の一途をたどることになってしまったが、心を痛めた住民は、昭和三十三年より復興運動に取組み始めた。昭和四十五年には国の重要文化財に指定 され、昭和五十年、現在地に移築復原された。当時、重要文化財施設に興行を行うことは許されないため、建物を見せるだけのものであったが、昭和六十年に歌 舞伎役者の中村吉右衛門、中村勘九郎、澤村藤十郎が、金丸座の素晴らしさに感嘆し「この小屋で芝居がしたい」と語ったことがきっかけとなり、町と住民が一 体となった運動で県や国を動かし、「四国こんびら歌舞伎大芝居」が実現した。現在では讃岐の春の風物詩として定着し、全国から多くの芝居見物客が訪れるよ うになっている。この金丸座の成功は、全国の芝居小屋を見直すきっかけとなり、各地で芝居小屋復興運動が始まった。
熊本県山鹿市の八千代座(明治四十四年開場)の復興運動は、地元老人会のの瓦一枚運動からスタートしている。市民の寄付金により約五万枚の屋根瓦が 葺き替えられ、平成元年に再び芝居小屋として蘇った。その後、重要文化財に指定され、平成十三年には五年間の解体修理を終え、劇場として最新設備を備えた 芝居小屋として新たにスタートした。
愛媛県内子町の内子座(大正五年開場)は、戦後映画館に転用されたが、興行の減少減少とともに廃館となり、その後、商工会館として使用されてきた。 昭和五十七年、八日市護国地区が重要伝統的建造物保存地区に指定されたのきっかけに、復原に着手。屋根、壁、内装を復原し、昭和六十年に芝居小屋として 蘇った。内子座文楽として文楽公演を定期的に開催し、町の観光資源とともに、全国から多くの観光客を呼び込んでいる。
秋田県小坂町の康楽館(明治四十三年開場)は、鉱山会社が従業員の福利厚生施設として
開館し歌舞伎や芝居、映画などの催しを行ってきた。昭和四十五年、建物の老朽化と機能低下により興行が中止された。その後、住民から修復・保存の声を受け て、寄付を受けた町当局が修復工事を行い、昭和六十一年に芝居小屋として蘇った。伊東元春一座の常設公演場として毎年四月から十二月までの間、公園が行わ れており、公演回数は一万回を越えている。
また、地歌舞伎が盛んであった岐阜県地方では、鳳凰座(下呂市)、白雲座(下呂市)、東座(白川町)、明治座(加子母村)、常磐座(福岡町)、村国座(各務原町)が復興し、地歌舞伎の復活、保存とともに生き続けている。

三、七尾の民衆文化と芝居小屋
①民衆文化(歌舞伎)の隆盛
江戸元禄期に華開いた歌舞伎は、七尾にもいち早く普及することとなった。元禄十二年(1699年)
菊地提要は、「能登釜」のなかで、氣多本宮まつりの歌舞伎の様子を詠っている。さらに享保二年
(1717年)に森田盛昌は、「能州紀行」のなかで氣多本宮まつりの氏子(奉納)歌舞伎の様子を克明に描写している。「氣多本宮本殿の前の仮舞台で、氏子 たちが奉納歌舞伎を演じるころになると、いよいよ奉りは最高潮に達した。先年までは、一本杉町、荒町(阿良町)、豆腐町(生駒町)、合同でつとめるのが例 であったが、近年では、一町三年交替となり、今年は豆腐町の当番であった。神前歌舞伎が終了すると、続いて町奉行権平殿の前に、やはり仮舞台を構え、先の 歌舞伎狂言を上演した。町人扮する素人役者は三十人がかりで「傾城浅間嶽三番続」が演じられた。楽屋では、よいやさよいやさ、ようできましたと見物衆が大 勢詰め掛けていた。なかなか江戸、京、大阪はしらず、其外にてこのような芸は有るまじと事也
装束は結構、芸達者、器量骨柄、弁舌才覚、立居振舞、拍子きき、しこなし、足さばき、心づかい、目づかい、三すじのばち音、笛のめじね、鼓・太鼓に至る迄、いかなる野郎、立役も及ぶ事では有まじ」
七尾で歌舞伎が民衆文化として定着していった背景には、職業歌舞伎一座の興行の影響が大きかったと思われるが、七尾における興行記録が少ないため、加賀藩(金沢)における芝居政策から検証する。    出雲の阿国の登場から十数年後、金沢では現在の香林坊辺りに座を立て、女達三十人ほどが、京・大阪から下ってきて芸を尽くしたのが加賀藩における芝 居の始まりといわれている。その後、幾多の藩による規制や許可が繰り返されが、文政元年(1818年)十二月六日に芝居が公認され、十二月十六日には犀川 川下久宝寺河原で初演が興行されいる。これは臨時の小屋掛けであったが、町会所の手によって、翌年四月から犀川川上新町の四十軒の家を買収して、そこで間 口十一間、奥行二十八間の常設小屋と芝居茶屋が建てられ、五月には興行が行われている。これが犀川川上芝居の始まりであるが、建てかたがよくなかったた め、同年九月、間口十三間、奥行三十一間半。舞台幅九間で桟敷、平場を合わせて千七百人を収容できる芝居小屋に建て替えられた。江戸、京、大阪にもこれだ けの規模の小屋はなかったといわれるほどの大掛かりな小屋であた。文政四年には、この小屋の北側にもう一軒建造されたが
前者は南芝居と呼ばれ、主として江戸、京、大阪の役者、後者は北芝居と呼ばれて主に地元の役者が出演した。藩は、川上芝居以外の地で芝居興行は禁止する方針であったが、一旦解禁されると領内各地から願いが相次ぎ加賀藩での芝居の黄金期を迎えた。
七尾でも、この黄金期、芝居興行が行われている。文政四年、金沢卯辰八幡社で興行を終えた坂東三津四郎一座の番付が残されている。
こうした歌舞伎の隆盛は、「でか山」(青柏祭)と深くかかわっていくことになり、でか山の人形飾りに歌舞伎の場面が取り入れられるようになってい く。現在は三体に簡素化されているが、当時は七体以上の人形がでか山を飾った。また、でか山の飾付師は芝居小屋の道具方でもあった。

     七尾の歴史的町並み

伝統町家と近代建築


福井大学工学部 市川秀和

一、ヨーロッパと日本の町並み

現代日本の海外旅行ブームなかで特にヨーロッパ諸国は、最も人気高い観光地の一つであろう。地中海の爽快な美しさに映えるイタリアやギリシャ、アルプ スの山岳風景と調和したスイス、芸術的な雰囲気の薫るフランス、グリム童話を彷彿させるロマンチックなドイツなど、ヨーロッパ各地を旅行してきた日本人は 誰でも、その「歴史的町並み」の魅力にこころから感動したことだろう。

しかし、それと同時に日本各地の都市がどうしてこれほどまでに画一的で個性がなく、感動的な魅力に乏しいかを実に痛感させられるのではないだろうか。  このような素朴な印象は、単に旅行経験者だけのものではなく、国際情報社会の現在では多くの人々にとっての共通した価値認識といっても過言ではあるま い。

ヨーロッパと日本の町並みを比較してみるとき、ここからわれわれは、都市固有の風土や文化によって長い時間をかけて創り出された「歴史的町並み」が、 如何に貴く重い価値のあるものなのかを新たに確認するとともに、国境を越えた多くの人々にまでも共感を与える歴史的遺産であることを深く学ばなければなら ないのである。 われわれ人間は、都市固有の伝統文化や歴史的町並みに触れてこそ、心の安らぎや生活の豊かさを、ほんとに実感できるのではなかろうか。

ところで日本の伝統的な住まいや生活文化、歴史的町並みの維持・保存をめぐる困難な問題に対して、地域の住民たちが独自に立ち上がって取り組み始め、 行政とのパートナーシップによって克服し、さらにそれを地域独特のまちづくりへと展開させる全国的運動が徐々に始まったのは、漸く1970年代後半から だった。

現在、歴史的町並みの魅力に満ちた地方観光都市の多くは、かかる住民たち独自の切実な努力によって支えられてきたのである。 例えば、港町の小樽・横 浜・長崎、宿場町の妻籠・奈良井・熊川、商家町の川越・近江八幡・倉敷、城下町の金沢・姫路・松江・熊本などは、古都独特の温かい情緒を漂わせて、国内外 から数多くの旅人の心を誘っている。

しかしながら現在もなお、日本の各地で貴重な歴史的町並みが、軽率な経済効率優先の都市乱開発や自然破壊等によって、危機に瀕しているのも偽りのない現状なのである。

二、ふるさと能登の風景

さて、このような歴史的町並みの保存に直面した緊急課題は、この能登半島の各地においても例外ではない。
これまでに能登各地で、目先の利益につられるあまり、その美しい自然環境や民俗文化等がどれほど失われ、ましてや歴史的町並みが計り知れず壊されてしまったであろうか。

この能登半島は、日本海のほぼ中央部に向けて長く突出しており、その優位な地勢的条件も与って、かつて古代以来の環日本海交流の主な表舞台であった。 近代までの日本が、海を隔てて交流を結んだのは、太平洋の遥か彼方の遠い異国では決してなく、日本海をめぐる朝鮮半島とその背後の中国大陸であり、かかる 積極的な交流が醸した豊かな生活文化と深い信仰儀礼は、能登の各地に現在までも僅かに息づいている。

さらに、このような能登半島における基層の自然環境と歴史風土が、中世の畠山文化を生み出す豊饒な母胎となり、また近世から近代にかけて日本海全域に わたる海運業の繁栄にみる庶民文化を築き上げる活力となったのではなかろうか。 能登に見る多様で豊かな風景は、この土地で生を受けた人々のこころに「ふ るさとの原風景」として、いつまでも温かく護られているのである。

では、このような能登半島における七尾市での豊かな庶民文化が創り出した「歴史的町並み」を以下に紹介したい。 ただし、この七尾市の歴史的町並みも、現在危険な状況にあることを前もって強調しておきたいと思う。

三、七尾の近世都市構造にみる特色

能登の七尾は、この半島の歴史風土の形成にて、絶えず中核の位置にあって現在に到っている。 かかる七尾が、今日の都市中心部を形成する骨格基盤を誕 生させたのは、戦国武将・前田利家が能登入国を果たした天正九年(1581)の近世初頭のことであった。 利家は、守護は畠山氏の栄華を象徴する七尾城と その山麓に整備された中世城下町を廃して、陸海の交通集結地「所ノ口」を敢えて選び、その自然地勢を最も巧みに利用した、新たな築城と城下町建設に着手し たのであった。所ノ口とは、古代以来の「香嶋津」として知られた豊かな歴史風土を有する場所であったが、本格的なまちづくりとしての計画的実施は、この時 が最初だったのだある。

まず利家は、低い丘陵の小丸山内にあった氣多本宮を移動させて強固な築城計画に取りかかり、併せて城下町区域と街道整備を徹底して実施した。 それ は、御祓川(南北軸)とそれに直交する内浦街道(東西軸・現一本杉通り)を骨格軸とし、能登街道と桜川を両境界線とした東西に細長い城下町空間を創出させ たのである。

天正十一年に利家が金沢へ移住した後も、引き続いて城代の統括下でかかる城下町整備は着実に進行したものと考えられる。 さらに、元和二年 (1616)には町奉行管轄下へと移ることで、「城下町」骨格を都市基盤としつつも、一般庶民による主体的な商業活動によって都市生活全般が支えられた 「宿場町」として完成するに到って、重層的な都市空間構造が実現できたのである。

また、主要な三街道(能登街道・内浦街道・灘浦街道)の結節点としての宿駅(違堀)には、三十五頭もの伝馬が常時置かれた、能登と加賀を繋ぐ重要な役 割を果たしていた。 この都市構造の核となった宿駅の場所を明示する「里程標」が戦前の頃まで残されていたという。 さらに都市区域の周囲に寺院を適宜配 置したり、街路を巧妙な辻空間(違堀)で結合するなど、都市防衛上の入念な配慮が確認されることからも、近世初期・都市計画上の重要な性格が明瞭に読み取 れる。 そしてかかる近世七尾の都市区域は、周囲の雄大な山並みや内浦の風景とも相互に調和して、自然環境の地域特性を充分に生かしていたと考えられるの である。

そのほか、七尾の町人たちの住まいは、その当初、御祓川を境界にして東側「職人街」と西側「商人街」から大きく分かれて、それぞれの生活空間を構成し ていたようである。 その職人街には大工町・作事町・塗師町・鍛冶町など、商人街には味噌屋町・豆腐町・米町・魚町などの町名が付けられており、現在まで もそれらの殆どが残されている。 なお、江戸後期の記録では、七十種近くもの職をもった庶民たちで、町全体は活気に満ちた賑わいを見せて、殊に、一本杉通 りや新(阿良)町通りを中心におよそ二千軒も立ち並んだ町家は、実に美しい秩序を醸し出すような「町並み風景」を展開させていた。 それはつまり、七尾町 人の誇り高い気質を風格ある伝統町家と歴史的町並みが雄弁に物語っていたのでだり、そして古都独特の情緒溢れる雰囲気を都市空間全体に生み出していたので あろう。

では、以上のような都市構造上の特色を有した七尾の歴史的町並みについて、次に詳しく具体的に見て行くこととしよう。

四、七尾の伝統町家と町並み

七尾の歴史的な庶民文化の豊かさを象徴するのが、情緒的な町並みの美しさであり、またその町並みを創りだす一つ一つの伝統町家である。
ところで、伝統的な住まいの歴史を振り返ってみると、下表のように整理することができる。 都市に暮らす庶民の住まいの「町家」は、「農家」や「漁 家」とともに一つのグループにまとめられ、支配者層の住まい(貴族住宅・武家住宅)とは区別される。 さらに町家には、下図にみられるような「表構え」 (外観)と「間取り」(平面図)に一般的な特徴がある。

      伝統的な住まいの形式分類

 ①貴族住宅(寝殿造)   支配者層の住まい
②武家住宅(書院造・数奇屋造)
 ③庶民住宅  1.町家(商人や職人の住まい
(古民家)   2.農家(農林業者の住まい)
3.漁家(漁師の住まい)  

 

      町家の間取り模式図

       

通り庭を片側にとった
三間取り型
通り庭 道 路
ザシキ ナカノマ ミセノマ
       

通り庭と部屋を2列にとった
六間取り間
通り庭 道  路
チャノマ ナカノマ ミセノマ
ザシキ ブツマ ミセノマ

都市型住宅としての町家は、それぞれの地域風土によって多様な造型を見せる農家住宅とは全く対照的であって、全国的にみると極めて造形的な類似性が高い。 それは土着生産性の強い農家に対して、町家は、全国的に流通した商業経済活動に拠るところが大きいからであろう。

そして町家に見られる特徴として、まず「表構え」については、街路に面して直接出入り口を設けた「切妻造り・平入り」が一般的である。 また二階は極 めて低く、一般的に物置として使われ、一階正面は半開放的な格子構えとなっている。 二階が居室として広く使われ始めるのは、明治末以降のことと考えられ ている。 さらにほぼ軒高の整った町家は、整然とした町並みを構成することから、個々の家屋の独立性が目立ちにくいので、「卯建」あるいは「袖壁(袖卯 建)」を設けている。 卯建には、防火防風等の実用性も備わっているといわれる。そのほか屋根は石を置いた板葺きが伝統的であって、瓦葺きが一般的に普及 するのも明治末以降のことである。

また町家の敷地は、間口が狭く奥に長い短冊状で、「うなぎの寝床」とも言われる。 従って、「間取り」は出入り口から最奥の中庭まで幅一間前後の「通 り庭(土間)」が貫通しており、それに沿って手前からミセノマやナカノマ、ザシキなどの部屋が並んでいる。 通り庭の奥に、台所や便所、風呂などが設置さ れ、中庭の向こう側に土蔵が置かれた。

以上が町家の一般的な建築的特徴である。なお現在、古い住宅も現代住宅も区別せず総称して「民家」と通常呼んでいはいるものの、伝統的な住宅を厳密に分けて呼ぶ場合は「古民家」が広く使われている。

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さて、それでは七尾庶民の伝統的な住まい、つまり「七尾町家」について触れたい。 そこで歴史的町並みの美しさを具体的に捉えるには、町家の表構えの なかでも、深い軒を支える「軒先形式」の構造意匠に着目する必要がる。 これは、町家の一般的な類型分類でもある。 そこで七尾中心部の旧市街地に見られ る伝統町家を詳しく見て歩くと、おおよそ四種類程に分類されることが分かった。 つまり「登梁構造」「腕木構造」「せがい構造」「その他(塗壁構造・茶屋 建築・楼望建築)」である。

登梁構造は、腕木構造とともに最も古い軒先形式で、明治末頃まで広く使われた。 太い傾斜材の登梁は、見た目にも豪快で力強く、一階正面の繊細な格子 構えと全く対照的な印象を与えるが、風格ある格式の家構えを象徴するにはもっとも相応しいと言えよう。 また一般的に五角形をした登梁断面形状は、将棋の 駒などと同じく、人の顔を表現しており、客人を迎える温かな心情を物語っているかのようである。 このほか、登梁は屋根荷重を直接受ける働きをするので、 雪国地方の住まいにとって最適な構造形式でもある。 しかし明治以降、二階が物置から居室へと用途を変えるに従って、軒高を高くする必要性から登梁構造は 徐々に使われなくなっていった。

腕木構造は、登梁に比べて細材で造れることと、二階の居室化にも充分対応できたことから、広く普及したものと考えられる。 また登梁の豪快さに対して 腕木は軽快な印象をあたえるように思われる。 さらに腕木構造は登梁構造とともに袖壁(袖卯建)を必ず備えていることも、町並み美観の上で見落とせない特 徴である。

せがい構造は、二階の居室化が定着してゆく大正以降に、新たに生み出された建築形式であり、また構造意匠でもある。 古い形式としての登梁構造や腕木 構造の軒高が低いのに対して、新しいせがい構造は遥かに高く、見た目ですぐに判断できる。 二階の居室化を広く促した一つの理由には、明治末からガラス窓 の普及があり、それ以前は障子の入った格子窓であった。 ガラス窓によって防火防風性能は向上し、そのために袖壁は必要なくなったことから、せがい構造に は袖壁の代わって「持ち送り」という彫物板が左右に二つ付けられるとともに、「せがい板」という化粧天井板が張られ、二階の深い軒下を職人の技と心が華や かに飾っていたのである。

これら「登梁構造」「腕木構造」「せがい構造」のほか、現在の七尾町家に確認される建築形式には、さらに土蔵造による、「塗壁構造」や遊郭に見られる 「茶屋建築」、さらに三階建ての「楼望建築」がある。 なお、今日までに残存する七尾町家の多くは、明治の二度の大火以降のものである。

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以上の町家の類型分類に基づいて、七尾町家の特色と現状を明らかにするために、旧市街地の一区域を調査して統計分析した結果が、下記の図表である。  調査区域については、七尾の旧市街地に色濃く残る近世都市構造の特色を充分考慮して、その都市骨格軸となった「一本杉通り~塗師町」と「阿良町~作事町」 の二つのストリート区域を取り上げた。

こうした調査結果によると、調査区域内の全戸数(521)のおよそ二割(106)に、伝統町家の残存していることが現状確認された。 ただしこの現状 残存率の二割とは、調査区域の魚町や作事町などにまとまって集中していることから、安易に少ないと判断してはならないだろう。

また、七尾町家の現状残存率の内訳をみると、「腕木」が半分以上で最も多く、ついで「せがい」が約二割、
「登梁」が約二割弱、そしてその他が約一割弱と続いた。ここから戦前頃までは、おそらく「登梁」が最も多かったと想像できるが、市街地開発や立て替え等に よって、最も古い建築様式であり新しい生活スタイルに対応しにくい「登梁」が特に姿を消していったものと判断される。 そして結果的に比較的柔軟性のあっ た「腕木」が最も多く残ったのであろうと考えられる。

そしてさらにこの現状残存率の内訳の中でも、「登梁」から七尾町家の特徴らしいものが見出された。 つまり残存する約二割弱の「登梁」には、通常の五 角形断面のもの以上に、「小屋根付登梁」という極めて手の込んだ仕上げがその半分以上を占めているのである。 建築史的に見れば、本来の五角形が装飾化し て小屋根状のものに変化したのであろうと考えられる。
ただ他県の例からすれば、この「小屋根付」は通常の家屋よりも、格式が高いようである。 従って、七尾町家の建築的特色をこの「小屋根付登梁」に見出すことは間違いないと考える。 七尾の豊かな繁栄と誇り高い庶民気質が、こうした七尾町家の特色を創出したと言えよう。

五、七尾町家・町並みと青柏祭

六、七尾の近代建築と町並み

幕末・明治維新の激動は、一地方に過ぎない能登の七尾へも波及してきたのである。 それは、七尾港における藩の軍艦所・語学所の設置であり、七尾庶民 の生活に与えた影響も多大であったろう。 建築史の視点から見れば、軍艦所・語学所の施設群はもちろんのこと、七尾に約半年間滞在した語学教師オズボンの 「住まい」などは殊のほか注目に値する。 しかし、これに関する建築史的資料は殆ど現存していない。 なおこの後、伝統的な町家の建ち並んだ七尾の市中 へ、洋風の建物が徐々に現れ始めた。

ところで、日本近代建築史の系譜の捉え方は、下記の図①のごとく、幕末から太平洋戦争終結までを「近代建築」と一般的に考えられている。 さらに下図 ②にあるように、かかる近代建築は五段階に区分して詳細に捉えられる。 まず最初は、幕末の外国人居留地(横浜・長崎等)での異人館建築を「西洋館建築」 と称し、一時的に滞留した外国人が、在地の大工職人に命じて建てさせた建築物である。 七尾の軍艦所・語学所はこれに属する。

〔Ⅰ〕           幕末・近代から現代までの建築様式区分
  幕末・明治・大正・昭和Ⅰ(~1945)  昭和Ⅱ(~1968)  昭和Ⅲ  平成~
近代建築(5項目)  戦後建築  現代建築
モダニズム ポストモダン

 

〔Ⅱ〕            「近代建築」の詳細区分(5項目))
①「西洋館建築」 幕末、外国人居留地でのコロニアル・スタイルの異人館建築。
②「擬洋風建築」 明治前期、大工職人見よう見まねで創作した建物。
③「洋 風 建 築」 明治中期以降、外国人や日本人の建築家による本格西洋建築。
④「看 板 建 築」 大正末・関東大震災後、、商店の外観に表れた庶民的デザイン。
⑤「近代和風建築」 明治以降、近代的な造形感覚による新しい和風様式。

 

〔Ⅲ〕       大工職人の伝統技術(和風)  ⇔ 欧米の建築技術(洋風)
日 本(和風) 西  欧(洋風)
建築材料 木     材  石材・煉瓦・鉄・コンクリート・ガラス
建築技術  大工道具(手)  工場での機械生産・科学技術
主な建物 社 寺・城 郭  市庁舎・学校・病院・駅舎・商店・教会
デザイン 木 割 寸 法  黄金分割・比例体系・オーダー
設 計 者 棟 梁・職 人  建築家・職人

 

  続いて、外国人居留地での建築を見て知った地方の大工職人が、地元へ帰って見よう見まねで創作したものを「擬洋風建築」と呼 んでいる。 一見して洋風に見えるものの、細部には和風の伝統意匠が多く混在しており、さらに骨組や工法も従来のままである。 しかし当時の職人によるユ ニークな独創性や伝統技術の高さを知る上で貴重なものと考えられている。

また明治中期以降には、外国人建築家を招聘して、純粋な西洋建築を建てさせたり、日本人を建築家として育成させるなど積極的な政府の欧化政策が展開した。 これらの本格的な建築を「洋風建築」と呼んでいる。

このほか、明治以降の近代的(西洋的)な造形感覚に刺激を受けた新たな和風建築を、「近代和風建築」と称している。 さらに大正末の関東大震災・復興期には、商店の外観を飾った通称「看板建築」が、庶民感覚による素朴なデザインと高度な伝統技術を特徴として誕生した。

このような日本の近代建築は、五つのグループによってほぼ捉えることが可能である。 さらにそのうえで、和風と洋風のそれぞれの建築技術を詳細に比較 してみるとき、上図Ⅲにあるような材料や工法などによって外観上のデザインが大きく違ってくることも考慮に入れる必要があろう。

現在の七尾旧市街地に僅かに残存する近代建築は、明治以降の激動する時代趨勢を背景に、伝統町家による町並みの中で創り出されてきたものである。 こ の七尾の近代建築を町並みとの関わりから考えるに当たって、まず五つのグループ区分から歴史的に位置づけ、和風と洋風の比較からデザイン的な特徴を見出す 必要がある。
それを以下に整理しつつ紹介する。

七尾の歴史的町並みの近代化 「市街地図」の変容を読む

七尾の近代建築に続けて、都市中心部の近代的変容についても少し触れておきたいと思う。 明治以降、城下町や宿場町など歴史的構造を有した都市中心部 の旧市街地は、新たな行政・軍事・教育・商業施設等の建設によって大きく変貌するとともに、さらに鉄道建設は大規模な都市構造転換を導き、その後の近代都 市計画の方向性を決定づけることとなった。

七尾の場合も、明治31年の七尾線開業は、それまでの交通認識を一変させただけでなく、経済的価値観や生活様式にまで多大な影響を与えたことは想像に 難くない。 しかし下図に提示した明治42年の七尾町全図に明らかなごとく、 当初の七尾停車場は旧市街地から南東方向に離れて建設(旧東部中学校付近) されたため、近世から続いた東西軸を骨格とした都市区域の様相を大きく変えるには到らなかったようである。 ただの二度の大火後、防火目的として川渕の東 側(桧物町)に波止場から南下する道路を貫通させたことが、東西に長く連ねた歴史的町並みを分断する最初の要因になった。 その後奥能登へ鉄道を延長する 目的から、 七尾停車場の位置を大正14年に現在地へ移転させたことで、波止場と結ぶ川淵通りが拡大整備されて誕生した。 この「近代制」としての川渕通 りは、それまでの東西を結ぶ「歴史軸」と複合することで、現代へ繋がる新たな都市骨格構造となった。
(下図Ⅱ)

 

七、おわりに  ・・・七尾の「歴史を生かしたまちづくり」へ向けて

冒頭から既に問題提起したように、われわれ日本にとって21世紀における都市のあり方とは、ヨーロッパ諸国の好例が如実に物語るように、自然環境にや さしく歴史的情緒豊かなまちづくりによって実現できるのではなかろうか。 従来の近代的合理主義による都市開発が、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す あまり、「物理的」な利便性・画一性は達成されたものの、その反面、地域固有の特色であった歴史的町並みや自然環境の破壊が「精神的」貧困による心の不安 感を導いたことは最早否定できない。 こうした近代都市計画の「負の遺産」からいち早く脱却して、新しい時代に相応しい地域独特のまちづくりに向けて前進 すべきではなかろうか。

そこで、ふるさと七尾の未来を真摯に思うとき、まずは従来のあり方を検討した上で、再び地域の歴史遺産に眼を向けるべきであろう。 今後の高齢社会や 環境汚染の問題に対応し、心の安らぎや生活の豊かさを実現するためのプロジェクトとして、伝統町家や近代建築等の保存活用による「歴史を生かしたまちづく り」は何よりも有効な手段である。 それに向けた第一歩として、本稿「七尾の歴史的町並み」が役立つことを切望したい。

*          *          *       
本稿は、昨年から本格的に取りかかり継続中の町並み調査研究の成果の一部である。 この一年間で、七尾の旧市街地における重要な伝統町家と近 代建築のリストアップ、さらに外観調査がほぼ終えた。 調査を進めるにあったて、ご指導いただきお世話になっている写真家・間蔵俊甫さんに、この場をお借 りて深くお礼を申し上げたい。 この調査研究は、真蔵さんとの共同作業による賜物に他ならない。

またこの八月から九月にかけての文化講座「七尾の町並み文化」(全三回)(七尾市立図書館・図書館友の会主催)では、講義のほかに町並みウオッチン グ・路上観察も取り入れたことで、多くの市民の皆さんとの温かい触れ合いからいろいろ学ばせていただいた。予想以上の好評を得ることが出来たことも合わせ て、関係者の皆さんに改めて感謝申し上げます。

七尾の町並み調査研究は、未だ始まったばかりで、まだまだ多くの課題が残され手います。 これからは、さらに町家・近代建築の内部調査へと進めるとと もに、これらの保存活用による「歴史を生かしたまちづくり」の実践へ向けて、市民の皆さんに少しでもご理解いただけるように、さらに行政とのパートナー シップを得られるように、誠実に着実に取り組んで努めていきたいと考えています。 どうかご協力をお願い致します。

さて皆さん、歴史的町並みについて一緒に勉強してみませんか。ご関心のある方やご意見のある方、ご遠慮なくご連絡いただければ幸いです。

主要参考文献
①古田桂二「町並み・家並み事典」東京堂出版 昭和61年
②大河直躬「歴史的遺産の保存とまちづくり」学芸出版社 平成9年
③「金沢市史 資料編⑰建築・建設」金沢市 平成10年
④吉田純一「ふくいの建築」福井県文化振興事業団 平成13年
⑤「目で見る七尾の百年」七尾市 昭和44年
⑥田中政行編「ふるさとの思い出 七尾」国書刊行会 昭和59年
⑦中村敏昭編「ドキュメント青柏祭」青柏祭協賛会 平成4年

筆者プロフィール
昭和43年生まれ。七尾市出身
七尾市立東部中学校卒後、国立石川高専・豊橋技術科学大学を経て、
ドイツ研究留学。その後福井大学大学院を終了し、工学博士を取得。
1997年より福井大学工学部建築建設工学科助手に着任
専攻は建築史・日独比較都市論。 現在、福井工業大学 講師
現住所=福井県鯖江市神中町三丁目9-20

 

「お抹茶挽き体験」<¥500.-/1人>
お抹茶の原料「碾茶」を茶磨で挽き、能登七尾名物「大豆飴」に、ちょっと贅沢に挽き立ての抹茶を掛けて戴きます。それは大人の醍醐味!挽き立てのお抹茶を点てて楽しむ体験です。

 

「挽きたてのお抹茶」
茶磨を時計の反対まわりに廻していくと、お茶の香がただよい鮮やかな緑のお抹茶が出てきます

 

能登七尾名物「大豆飴」
名前は飴ですが、黄粉と水飴を主に作り上げるお菓子です。これにちょっと贅沢に挽きたてのお抹茶を掛けて戴くと、まさに大人の醍醐味!

 

「お抹茶を点てて」
お抹茶を点てて戴いてみましょう。やっぱり挽きたての香と味わいは最高!

 

能登七尾名物 「抹茶大豆飴(まめあめ)「ふりふり」 ¥300.-/袋(送料別) 大豆飴は飴にあらず、黄粉と水飴を原料に作られたお菓子です。 その大豆飴に手挽きの抹茶を振りかけて戴く、大人の味の醍醐味です。 お茶屋だからの発想です。 手挽きの抹茶を振りかけて袋詰めしました。

 

七尾駅前、長谷川等伯像

 JR七尾線の七尾駅の改札を出ると

一番先に目に入るのが等伯の青雲の像です

まさにこれこそ七尾市のシンボルです

「等伯会」製作発行の色紙を紹介します

 

 

 

 

長谷川信春筆 達摩図

達摩図

長谷川信春筆 紙本墨画 一幅
七尾市 龍門寺蔵
縦 71.0cm 横 56.7cm

本図は七尾が生んだ近世画壇の
巨匠長谷川等伯(1539-1610)の
青年時代の名作として
近年とみに有名になった作品です

等伯は、はじめ雪舟門人の等春に学んで信春と号し
若くしてその卓抜な天才ぶりを発揮して
仏画、道釈画、肖像画、鑑賞画など
広い領域にわたって製作し
彩色、水墨とも能くしましたが

本図は水墨の道釈を代表する名品であって
同じく七尾の霊泉寺に伝えられる
淡彩十六羅漢図(八幅)と
ともに信春時代の等伯研究の上で
重視されるのであります

それは本格的な漢画の水墨技法を示し
炯炯(けいけい)たる眼光逞しい体躯は
戦国武将の風姿を想わせますが
その鋭く強い筆致は
後年の等伯時代の
多くの水墨画に見られる技法的特色を
予知せしめるものがあります (土居次義)
(色紙サイズ:約 縦27.2cm 横24.2cm)
(色紙の栞より)

長谷川信春(等伯)筆 花鳥図屏風

花鳥図屏風
(かちょうずびょうぶ)

重要文化財 六曲一隻
長谷川信春(等伯)筆 妙覚寺
縦 149.5㎝ 横 360.0㎝

本屏風は、京都の相馬家から妙覚寺へ
寄進された漢画系の花鳥図で もとは六曲一双であったと思われるが、
現在は左隻と考えられる
この一隻が伝声している
右へ伸びた白梅を中心に竹と笹薔薇を配し
地面には睡蓮を、さらに梅樹に遊ぶ鴛鴦と鶯を
愛情豊かに描いている
細密な描写で描かれた禽鳥たちと
濃く短い輪郭線をつまぎ合わせたような梅樹や
岩や笹の強く直線的な表現は対称的で
それぞれをより際だたせいる

画面の両端に重心を置く構図は雪舟を思わせ
自ら雪舟五代と称した等伯の画業の流れを
感じ取ることができよう
一見、華やかな著色画に見られるが
あくまでも水墨を基調としており
一部に色彩のが施されているだけである
その僅かな彩色の配し方は絶妙で
改めて等伯の色彩感覚の高さが窺われる

「長谷川」の朱文長方形印と
「信春」の鼎形朱文印が捺されており
信春画と等伯画とを繋ぐ作品としても
極めて貴重な作品と言える
(色紙サイズ:約 縦27.2cm 横24.2cm)
(色紙の栞より)

長谷川信春(等伯)筆 牧場図屏風

牧場図屏風
(ぼくばずびょうぶ)

長谷川信春(等伯)筆 六曲一双
東京国立博物館蔵
各縦158.6㎝ 横343.6㎝

現在、この屏風に落款は確認できないが
以前は「信春」印のあったことが知らされている
それを示すように、素地泥引に濃彩で描かれた画面には
信春時代の特徴が多く見られ
特に馬は「伝名和長年像」(東京国立博物館蔵)や
「弁財天五十五童子図」(個人図)と
ほぼ同じ形体を示している

右隻には春景を、左隻には秋景を描いたもので
本画像はその内右隻の中心部分である
山野に戯れる群馬と
それを調教する武人たちを描き
土坡や水流の表現には大和絵的な様式を用いている
近世風俗画の先駆的作品で
信春時代における代表作の一つと言えよう

制作年代については上洛後説が強いが
色彩的な部分から見た場合
能登に現存する作品と近いように思われる
また、信春の養父・宗清は
雪舟の弟子・等春に絵を学んだと言われ
その等春は晩年に雪舟と共に北陸へ訪れ
能登畠山氏の所望で馬の絵十幅を
描いたと伝えられる
更に、加賀の守護富樫家累代の人々は画技に長け
特に馬の描写については
雪舟も賞賛したとの事であるから
能登時代にも先人の優れた
絵手本があったとも考えられ
その辺の関連性も含めての検討が必要であろう

(色紙サイズ:約 縦27.2cm 横24.2cm)
(色紙の栞より)

七尾・一本杉通り

秋の手仕事ストリートウオーク2014

準備始まる。今年は、陶芸展「山本洋治の志野焼」と「田中敬子の珠洲焼」

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