でか小屋

明治時代の芝居小屋「でか小屋」の再生に向けて(概要)

でか小屋再生おせっ会                                               事務局 鳥居貞利

七尾市府中町に現存する明治時代の芝居小屋「でか小屋」は、七尾市が全国に誇れる貴重な歴史的文化遺産です。
おせっ会は、中心市街地の活性化を図るため「でか小屋」を観光資源として、また、市民のための文化施設として活かしていくことを目指して、平成16年8月市民有志によって結成された会です。

1.おせっ会の活動
・小屋清掃の実施
・市民へのPRのため落語会や素人歌舞伎公演など開催
・調査(文献、建物)
・再生基金確保のため募金活動実施(一円玉募金)
・全国の芝居小屋関係者との交流

2.でか小屋の歴史
建設時期  明治初期から中期の間
廃館時期  明治26年、作事町有志による歌舞伎興行を最後に廃館
廃 館 後  莚(むしろ)倉庫に転用
舞台や花道、桟敷席などの劇場機構が撤去される、小羽(こば)葺き屋根を
瓦屋根に葺き替えられたため、建物中央部に補強柱が入る。
戦時中、現市道1号線拡幅のため正面3間分(推計)が取り壊される。
昭和35年以降、木工製作所、神棚制作・メッキ等の工場として使われる。
現在、倉庫として使用。

3.でか小屋の特徴・希少性
構  造   伝統的な和小屋(貫構造)
現存する芝居小屋の大半は洋式(トラス)工法の小屋。
確認されている和小屋は、天保6年建設の金丸座(香川県)のみ。
資  材   和釘(四角釘)を使用(明治中期以降は洋釘が使われるようになった。)
使用用途  商業用の芝居小屋
商業用芝居小屋は商業都市や港町など活力のある町にでき、旦那衆が
スポンサーになった。港町で残っているのは「でか小屋」のみ。

4.全国の状況
現存数   芝居小屋は、全国で2,000館以上造られたと言われているが、現存しているのは
23館のみ。(復元整備されていない小屋を含む)
復元整備され活用されている主な芝居小屋は、
康楽館(秋田県小坂町)、ながめ余興場(群馬県小間々町)
金丸座(香川県琴平町)、内子座(愛媛県内子町)
嘉穂劇場(福岡県飯塚市)、八千代座(熊本県山鹿市)

5.でか小屋の活用策
観光資源  伝統様式を備えた芝居小屋として復元し、フルシーズン観光客が見学できる
施設
文化施設  市民サークルの発表や学校の課外活動、市民団体等が主催する公演会場
など、市民の文化活動の拠点として活かされる施設。

6.おせっ会が目指す中心市街地の活性化策
(1)交流人口の拡大
観光資源として「でか小屋」を活かしていくため、他の資源と一体になった活用
策を検討中。
①七尾固有の資源の活用と開発(歴史と文化)
城下町としての街並みと町割り(商人街と職人街)、城址、寺院群、
港町文化(北前船)とでか山)
町屋(国登録有形文化財)
②商店街との連携
中央通り、七尾駅前通り、一本杉通り、東部など中心市街地の商店街
③他施設、他団体との連携
食祭市場、駅前再開発ビル、まちづくり団体など
④和倉温泉との連携
(2)市民の利便性の確保
中心市街地の賑わいは、空洞化が防止され市民の利便性が確保される。
施設の集中化(コンパクトシティづくり)

(註)トラス:各部材の接合点を連結し、三角形の集合形式に組立てた構造。
湾曲力に強く、橋や屋根組みに用いられる。

<明治の芝居小屋「でか小屋」再生に向けて>

一、はじめに
北陸地方はもとより、日本海側沿岸で唯一残されてきた芝居小屋「でか小屋」は、スギヨ本社前の市道1号線沿いに建っている。 外側は、倉庫風のトタ ン張り小屋のため、見逃してしまいそうであるが、明治時期に建てられた芝居小屋である。中に入ると芝居小屋特有の空間が展開される。舞台や桟敷席などは取 り払われてしまっているが、骨組みは当時のままの状態で残されており、往年の豪華さが偲ばれる。

でか小屋は、芝居小屋としての役割を終えると、海運倉庫として、鉄(木)工所として使用されてきたため、市民の目に触れることなく、百数十年間、 ひっそりと残されてきた。三年前、七尾市広報(平成14年5月号)で紹介されてから市民の関心をひくようになったが、当時は、調査が十分にニ進んでいな かったために「松尾座」として紹介されている。その後、七尾市教育委員会文化課から調査依頼を受けた福井工業大学の市川秀和氏の調査(平成15年8月号) により、「でか小屋」であることが判明した。

明治期、芝居見物は、民衆の最大の楽しみの一つであったが、その場である芝居小屋は、どんな経緯を辿りながら造られていったのか検証してみることにする。

二、芝居小屋の変遷
①芝居小屋の興り
現在、でか小屋に関する史料はほとんど残されていない。どんな経緯を辿り、誰が何時造ったのか不明のため、日本における芝居小屋の変遷をみることで推測したいと思う。
現在の建築様式を備えた芝居小屋は、歌舞伎の確立とともに発展していく。江戸開府時、出雲の阿国が京都でかぶきおどりを始めたのが歌舞伎も起源とされ、幾多の変遷を経て、元禄期、現在の歌舞伎の原型である野郎歌舞伎となって華開いていく。
当時の芝居小屋は、本舞台と東西の桟敷に藁葺きの屋根がかかり、周囲を板囲いしたもので、舞台全面の客座には屋根がないため雨天には興行ができな かった。全蓋式の小屋が出現するのは、享保年間(1700年前期)に、「瓦屋根、塗壁造」を条件として幕府が許可してからである。以後、花道や回り舞台や スッポンなど機能が整備され、歌舞伎劇場として完成していく。
一方、地方の芝居小屋は、この江戸や大阪の各座を参考に、幕末より全国各地に建てられ始め、戦前には全国に二千以上の芝居小屋があったといわれている。
しかし、大衆娯楽の中心が芝居から映画に移ると、ほとんどの芝居小屋は、映画館に機能を変え運営されていく。その映画館も、テレビの普及により映画が 衰退し、廃館の道をたどることになる。廃館に追い込まれた芝居小屋のほとんどは、二度と使われることなく放置され、そして荒れ放題になり、最後は朽ち果て ていった。昭和三十、四十年代の出来事である。そんななかで、かろうじて取り壊しを免れ、残されてきた芝居小屋は、全国で二十館程度にすぎない。

②芝居小屋復興の動き
現存する芝居小屋のほとんどは、いったん廃館となったが住民の復興運動により行政を動かし、蘇ることになった。
現存する最古の芝居小屋、香川県琴平町の金丸座が建造されたのは天保六年(1835年)である。
門前町として賑わいを生み出してきた金丸座であるが、大衆娯楽の変化により映画館に機能を変え、細々と経営を続けることになる。このため、芝居小屋として の機能は廃墟の一途をたどることになってしまったが、心を痛めた住民は、昭和三十三年より復興運動に取組み始めた。昭和四十五年には国の重要文化財に指定 され、昭和五十年、現在地に移築復原された。当時、重要文化財施設に興行を行うことは許されないため、建物を見せるだけのものであったが、昭和六十年に歌 舞伎役者の中村吉右衛門、中村勘九郎、澤村藤十郎が、金丸座の素晴らしさに感嘆し「この小屋で芝居がしたい」と語ったことがきっかけとなり、町と住民が一 体となった運動で県や国を動かし、「四国こんびら歌舞伎大芝居」が実現した。現在では讃岐の春の風物詩として定着し、全国から多くの芝居見物客が訪れるよ うになっている。この金丸座の成功は、全国の芝居小屋を見直すきっかけとなり、各地で芝居小屋復興運動が始まった。
熊本県山鹿市の八千代座(明治四十四年開場)の復興運動は、地元老人会のの瓦一枚運動からスタートしている。市民の寄付金により約五万枚の屋根瓦が 葺き替えられ、平成元年に再び芝居小屋として蘇った。その後、重要文化財に指定され、平成十三年には五年間の解体修理を終え、劇場として最新設備を備えた 芝居小屋として新たにスタートした。
愛媛県内子町の内子座(大正五年開場)は、戦後映画館に転用されたが、興行の減少減少とともに廃館となり、その後、商工会館として使用されてきた。 昭和五十七年、八日市護国地区が重要伝統的建造物保存地区に指定されたのきっかけに、復原に着手。屋根、壁、内装を復原し、昭和六十年に芝居小屋として 蘇った。内子座文楽として文楽公演を定期的に開催し、町の観光資源とともに、全国から多くの観光客を呼び込んでいる。
秋田県小坂町の康楽館(明治四十三年開場)は、鉱山会社が従業員の福利厚生施設として
開館し歌舞伎や芝居、映画などの催しを行ってきた。昭和四十五年、建物の老朽化と機能低下により興行が中止された。その後、住民から修復・保存の声を受け て、寄付を受けた町当局が修復工事を行い、昭和六十一年に芝居小屋として蘇った。伊東元春一座の常設公演場として毎年四月から十二月までの間、公園が行わ れており、公演回数は一万回を越えている。
また、地歌舞伎が盛んであった岐阜県地方では、鳳凰座(下呂市)、白雲座(下呂市)、東座(白川町)、明治座(加子母村)、常磐座(福岡町)、村国座(各務原町)が復興し、地歌舞伎の復活、保存とともに生き続けている。

三、七尾の民衆文化と芝居小屋
①民衆文化(歌舞伎)の隆盛
江戸元禄期に華開いた歌舞伎は、七尾にもいち早く普及することとなった。元禄十二年(1699年)
菊地提要は、「能登釜」のなかで、氣多本宮まつりの歌舞伎の様子を詠っている。さらに享保二年
(1717年)に森田盛昌は、「能州紀行」のなかで氣多本宮まつりの氏子(奉納)歌舞伎の様子を克明に描写している。「氣多本宮本殿の前の仮舞台で、氏子 たちが奉納歌舞伎を演じるころになると、いよいよ奉りは最高潮に達した。先年までは、一本杉町、荒町(阿良町)、豆腐町(生駒町)、合同でつとめるのが例 であったが、近年では、一町三年交替となり、今年は豆腐町の当番であった。神前歌舞伎が終了すると、続いて町奉行権平殿の前に、やはり仮舞台を構え、先の 歌舞伎狂言を上演した。町人扮する素人役者は三十人がかりで「傾城浅間嶽三番続」が演じられた。楽屋では、よいやさよいやさ、ようできましたと見物衆が大 勢詰め掛けていた。なかなか江戸、京、大阪はしらず、其外にてこのような芸は有るまじと事也
装束は結構、芸達者、器量骨柄、弁舌才覚、立居振舞、拍子きき、しこなし、足さばき、心づかい、目づかい、三すじのばち音、笛のめじね、鼓・太鼓に至る迄、いかなる野郎、立役も及ぶ事では有まじ」
七尾で歌舞伎が民衆文化として定着していった背景には、職業歌舞伎一座の興行の影響が大きかったと思われるが、七尾における興行記録が少ないため、加賀藩(金沢)における芝居政策から検証する。    出雲の阿国の登場から十数年後、金沢では現在の香林坊辺りに座を立て、女達三十人ほどが、京・大阪から下ってきて芸を尽くしたのが加賀藩における芝 居の始まりといわれている。その後、幾多の藩による規制や許可が繰り返されが、文政元年(1818年)十二月六日に芝居が公認され、十二月十六日には犀川 川下久宝寺河原で初演が興行されいる。これは臨時の小屋掛けであったが、町会所の手によって、翌年四月から犀川川上新町の四十軒の家を買収して、そこで間 口十一間、奥行二十八間の常設小屋と芝居茶屋が建てられ、五月には興行が行われている。これが犀川川上芝居の始まりであるが、建てかたがよくなかったた め、同年九月、間口十三間、奥行三十一間半。舞台幅九間で桟敷、平場を合わせて千七百人を収容できる芝居小屋に建て替えられた。江戸、京、大阪にもこれだ けの規模の小屋はなかったといわれるほどの大掛かりな小屋であた。文政四年には、この小屋の北側にもう一軒建造されたが
前者は南芝居と呼ばれ、主として江戸、京、大阪の役者、後者は北芝居と呼ばれて主に地元の役者が出演した。藩は、川上芝居以外の地で芝居興行は禁止する方針であったが、一旦解禁されると領内各地から願いが相次ぎ加賀藩での芝居の黄金期を迎えた。
七尾でも、この黄金期、芝居興行が行われている。文政四年、金沢卯辰八幡社で興行を終えた坂東三津四郎一座の番付が残されている。
こうした歌舞伎の隆盛は、「でか山」(青柏祭)と深くかかわっていくことになり、でか山の人形飾りに歌舞伎の場面が取り入れられるようになってい く。現在は三体に簡素化されているが、当時は七体以上の人形がでか山を飾った。また、でか山の飾付師は芝居小屋の道具方でもあった。