七尾の歴史的町並み

     七尾の歴史的町並み

伝統町家と近代建築


福井大学工学部 市川秀和

一、ヨーロッパと日本の町並み

現代日本の海外旅行ブームなかで特にヨーロッパ諸国は、最も人気高い観光地の一つであろう。地中海の爽快な美しさに映えるイタリアやギリシャ、アルプ スの山岳風景と調和したスイス、芸術的な雰囲気の薫るフランス、グリム童話を彷彿させるロマンチックなドイツなど、ヨーロッパ各地を旅行してきた日本人は 誰でも、その「歴史的町並み」の魅力にこころから感動したことだろう。

しかし、それと同時に日本各地の都市がどうしてこれほどまでに画一的で個性がなく、感動的な魅力に乏しいかを実に痛感させられるのではないだろうか。  このような素朴な印象は、単に旅行経験者だけのものではなく、国際情報社会の現在では多くの人々にとっての共通した価値認識といっても過言ではあるま い。

ヨーロッパと日本の町並みを比較してみるとき、ここからわれわれは、都市固有の風土や文化によって長い時間をかけて創り出された「歴史的町並み」が、 如何に貴く重い価値のあるものなのかを新たに確認するとともに、国境を越えた多くの人々にまでも共感を与える歴史的遺産であることを深く学ばなければなら ないのである。 われわれ人間は、都市固有の伝統文化や歴史的町並みに触れてこそ、心の安らぎや生活の豊かさを、ほんとに実感できるのではなかろうか。

ところで日本の伝統的な住まいや生活文化、歴史的町並みの維持・保存をめぐる困難な問題に対して、地域の住民たちが独自に立ち上がって取り組み始め、 行政とのパートナーシップによって克服し、さらにそれを地域独特のまちづくりへと展開させる全国的運動が徐々に始まったのは、漸く1970年代後半から だった。

現在、歴史的町並みの魅力に満ちた地方観光都市の多くは、かかる住民たち独自の切実な努力によって支えられてきたのである。 例えば、港町の小樽・横 浜・長崎、宿場町の妻籠・奈良井・熊川、商家町の川越・近江八幡・倉敷、城下町の金沢・姫路・松江・熊本などは、古都独特の温かい情緒を漂わせて、国内外 から数多くの旅人の心を誘っている。

しかしながら現在もなお、日本の各地で貴重な歴史的町並みが、軽率な経済効率優先の都市乱開発や自然破壊等によって、危機に瀕しているのも偽りのない現状なのである。

二、ふるさと能登の風景

さて、このような歴史的町並みの保存に直面した緊急課題は、この能登半島の各地においても例外ではない。
これまでに能登各地で、目先の利益につられるあまり、その美しい自然環境や民俗文化等がどれほど失われ、ましてや歴史的町並みが計り知れず壊されてしまったであろうか。

この能登半島は、日本海のほぼ中央部に向けて長く突出しており、その優位な地勢的条件も与って、かつて古代以来の環日本海交流の主な表舞台であった。 近代までの日本が、海を隔てて交流を結んだのは、太平洋の遥か彼方の遠い異国では決してなく、日本海をめぐる朝鮮半島とその背後の中国大陸であり、かかる 積極的な交流が醸した豊かな生活文化と深い信仰儀礼は、能登の各地に現在までも僅かに息づいている。

さらに、このような能登半島における基層の自然環境と歴史風土が、中世の畠山文化を生み出す豊饒な母胎となり、また近世から近代にかけて日本海全域に わたる海運業の繁栄にみる庶民文化を築き上げる活力となったのではなかろうか。 能登に見る多様で豊かな風景は、この土地で生を受けた人々のこころに「ふ るさとの原風景」として、いつまでも温かく護られているのである。

では、このような能登半島における七尾市での豊かな庶民文化が創り出した「歴史的町並み」を以下に紹介したい。 ただし、この七尾市の歴史的町並みも、現在危険な状況にあることを前もって強調しておきたいと思う。

三、七尾の近世都市構造にみる特色

能登の七尾は、この半島の歴史風土の形成にて、絶えず中核の位置にあって現在に到っている。 かかる七尾が、今日の都市中心部を形成する骨格基盤を誕 生させたのは、戦国武将・前田利家が能登入国を果たした天正九年(1581)の近世初頭のことであった。 利家は、守護は畠山氏の栄華を象徴する七尾城と その山麓に整備された中世城下町を廃して、陸海の交通集結地「所ノ口」を敢えて選び、その自然地勢を最も巧みに利用した、新たな築城と城下町建設に着手し たのであった。所ノ口とは、古代以来の「香嶋津」として知られた豊かな歴史風土を有する場所であったが、本格的なまちづくりとしての計画的実施は、この時 が最初だったのだある。

まず利家は、低い丘陵の小丸山内にあった氣多本宮を移動させて強固な築城計画に取りかかり、併せて城下町区域と街道整備を徹底して実施した。 それ は、御祓川(南北軸)とそれに直交する内浦街道(東西軸・現一本杉通り)を骨格軸とし、能登街道と桜川を両境界線とした東西に細長い城下町空間を創出させ たのである。

天正十一年に利家が金沢へ移住した後も、引き続いて城代の統括下でかかる城下町整備は着実に進行したものと考えられる。 さらに、元和二年 (1616)には町奉行管轄下へと移ることで、「城下町」骨格を都市基盤としつつも、一般庶民による主体的な商業活動によって都市生活全般が支えられた 「宿場町」として完成するに到って、重層的な都市空間構造が実現できたのである。

また、主要な三街道(能登街道・内浦街道・灘浦街道)の結節点としての宿駅(違堀)には、三十五頭もの伝馬が常時置かれた、能登と加賀を繋ぐ重要な役 割を果たしていた。 この都市構造の核となった宿駅の場所を明示する「里程標」が戦前の頃まで残されていたという。 さらに都市区域の周囲に寺院を適宜配 置したり、街路を巧妙な辻空間(違堀)で結合するなど、都市防衛上の入念な配慮が確認されることからも、近世初期・都市計画上の重要な性格が明瞭に読み取 れる。 そしてかかる近世七尾の都市区域は、周囲の雄大な山並みや内浦の風景とも相互に調和して、自然環境の地域特性を充分に生かしていたと考えられるの である。

そのほか、七尾の町人たちの住まいは、その当初、御祓川を境界にして東側「職人街」と西側「商人街」から大きく分かれて、それぞれの生活空間を構成し ていたようである。 その職人街には大工町・作事町・塗師町・鍛冶町など、商人街には味噌屋町・豆腐町・米町・魚町などの町名が付けられており、現在まで もそれらの殆どが残されている。 なお、江戸後期の記録では、七十種近くもの職をもった庶民たちで、町全体は活気に満ちた賑わいを見せて、殊に、一本杉通 りや新(阿良)町通りを中心におよそ二千軒も立ち並んだ町家は、実に美しい秩序を醸し出すような「町並み風景」を展開させていた。 それはつまり、七尾町 人の誇り高い気質を風格ある伝統町家と歴史的町並みが雄弁に物語っていたのでだり、そして古都独特の情緒溢れる雰囲気を都市空間全体に生み出していたので あろう。

では、以上のような都市構造上の特色を有した七尾の歴史的町並みについて、次に詳しく具体的に見て行くこととしよう。

四、七尾の伝統町家と町並み

七尾の歴史的な庶民文化の豊かさを象徴するのが、情緒的な町並みの美しさであり、またその町並みを創りだす一つ一つの伝統町家である。
ところで、伝統的な住まいの歴史を振り返ってみると、下表のように整理することができる。 都市に暮らす庶民の住まいの「町家」は、「農家」や「漁 家」とともに一つのグループにまとめられ、支配者層の住まい(貴族住宅・武家住宅)とは区別される。 さらに町家には、下図にみられるような「表構え」 (外観)と「間取り」(平面図)に一般的な特徴がある。

      伝統的な住まいの形式分類

 ①貴族住宅(寝殿造)   支配者層の住まい
②武家住宅(書院造・数奇屋造)
 ③庶民住宅  1.町家(商人や職人の住まい
(古民家)   2.農家(農林業者の住まい)
3.漁家(漁師の住まい)  

 

      町家の間取り模式図

       

通り庭を片側にとった
三間取り型
通り庭 道 路
ザシキ ナカノマ ミセノマ
       

通り庭と部屋を2列にとった
六間取り間
通り庭 道  路
チャノマ ナカノマ ミセノマ
ザシキ ブツマ ミセノマ

都市型住宅としての町家は、それぞれの地域風土によって多様な造型を見せる農家住宅とは全く対照的であって、全国的にみると極めて造形的な類似性が高い。 それは土着生産性の強い農家に対して、町家は、全国的に流通した商業経済活動に拠るところが大きいからであろう。

そして町家に見られる特徴として、まず「表構え」については、街路に面して直接出入り口を設けた「切妻造り・平入り」が一般的である。 また二階は極 めて低く、一般的に物置として使われ、一階正面は半開放的な格子構えとなっている。 二階が居室として広く使われ始めるのは、明治末以降のことと考えられ ている。 さらにほぼ軒高の整った町家は、整然とした町並みを構成することから、個々の家屋の独立性が目立ちにくいので、「卯建」あるいは「袖壁(袖卯 建)」を設けている。 卯建には、防火防風等の実用性も備わっているといわれる。そのほか屋根は石を置いた板葺きが伝統的であって、瓦葺きが一般的に普及 するのも明治末以降のことである。

また町家の敷地は、間口が狭く奥に長い短冊状で、「うなぎの寝床」とも言われる。 従って、「間取り」は出入り口から最奥の中庭まで幅一間前後の「通 り庭(土間)」が貫通しており、それに沿って手前からミセノマやナカノマ、ザシキなどの部屋が並んでいる。 通り庭の奥に、台所や便所、風呂などが設置さ れ、中庭の向こう側に土蔵が置かれた。

以上が町家の一般的な建築的特徴である。なお現在、古い住宅も現代住宅も区別せず総称して「民家」と通常呼んでいはいるものの、伝統的な住宅を厳密に分けて呼ぶ場合は「古民家」が広く使われている。

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さて、それでは七尾庶民の伝統的な住まい、つまり「七尾町家」について触れたい。 そこで歴史的町並みの美しさを具体的に捉えるには、町家の表構えの なかでも、深い軒を支える「軒先形式」の構造意匠に着目する必要がる。 これは、町家の一般的な類型分類でもある。 そこで七尾中心部の旧市街地に見られ る伝統町家を詳しく見て歩くと、おおよそ四種類程に分類されることが分かった。 つまり「登梁構造」「腕木構造」「せがい構造」「その他(塗壁構造・茶屋 建築・楼望建築)」である。

登梁構造は、腕木構造とともに最も古い軒先形式で、明治末頃まで広く使われた。 太い傾斜材の登梁は、見た目にも豪快で力強く、一階正面の繊細な格子 構えと全く対照的な印象を与えるが、風格ある格式の家構えを象徴するにはもっとも相応しいと言えよう。 また一般的に五角形をした登梁断面形状は、将棋の 駒などと同じく、人の顔を表現しており、客人を迎える温かな心情を物語っているかのようである。 このほか、登梁は屋根荷重を直接受ける働きをするので、 雪国地方の住まいにとって最適な構造形式でもある。 しかし明治以降、二階が物置から居室へと用途を変えるに従って、軒高を高くする必要性から登梁構造は 徐々に使われなくなっていった。

腕木構造は、登梁に比べて細材で造れることと、二階の居室化にも充分対応できたことから、広く普及したものと考えられる。 また登梁の豪快さに対して 腕木は軽快な印象をあたえるように思われる。 さらに腕木構造は登梁構造とともに袖壁(袖卯建)を必ず備えていることも、町並み美観の上で見落とせない特 徴である。

せがい構造は、二階の居室化が定着してゆく大正以降に、新たに生み出された建築形式であり、また構造意匠でもある。 古い形式としての登梁構造や腕木 構造の軒高が低いのに対して、新しいせがい構造は遥かに高く、見た目ですぐに判断できる。 二階の居室化を広く促した一つの理由には、明治末からガラス窓 の普及があり、それ以前は障子の入った格子窓であった。 ガラス窓によって防火防風性能は向上し、そのために袖壁は必要なくなったことから、せがい構造に は袖壁の代わって「持ち送り」という彫物板が左右に二つ付けられるとともに、「せがい板」という化粧天井板が張られ、二階の深い軒下を職人の技と心が華や かに飾っていたのである。

これら「登梁構造」「腕木構造」「せがい構造」のほか、現在の七尾町家に確認される建築形式には、さらに土蔵造による、「塗壁構造」や遊郭に見られる 「茶屋建築」、さらに三階建ての「楼望建築」がある。 なお、今日までに残存する七尾町家の多くは、明治の二度の大火以降のものである。

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以上の町家の類型分類に基づいて、七尾町家の特色と現状を明らかにするために、旧市街地の一区域を調査して統計分析した結果が、下記の図表である。  調査区域については、七尾の旧市街地に色濃く残る近世都市構造の特色を充分考慮して、その都市骨格軸となった「一本杉通り~塗師町」と「阿良町~作事町」 の二つのストリート区域を取り上げた。

こうした調査結果によると、調査区域内の全戸数(521)のおよそ二割(106)に、伝統町家の残存していることが現状確認された。 ただしこの現状 残存率の二割とは、調査区域の魚町や作事町などにまとまって集中していることから、安易に少ないと判断してはならないだろう。

また、七尾町家の現状残存率の内訳をみると、「腕木」が半分以上で最も多く、ついで「せがい」が約二割、
「登梁」が約二割弱、そしてその他が約一割弱と続いた。ここから戦前頃までは、おそらく「登梁」が最も多かったと想像できるが、市街地開発や立て替え等に よって、最も古い建築様式であり新しい生活スタイルに対応しにくい「登梁」が特に姿を消していったものと判断される。 そして結果的に比較的柔軟性のあっ た「腕木」が最も多く残ったのであろうと考えられる。

そしてさらにこの現状残存率の内訳の中でも、「登梁」から七尾町家の特徴らしいものが見出された。 つまり残存する約二割弱の「登梁」には、通常の五 角形断面のもの以上に、「小屋根付登梁」という極めて手の込んだ仕上げがその半分以上を占めているのである。 建築史的に見れば、本来の五角形が装飾化し て小屋根状のものに変化したのであろうと考えられる。
ただ他県の例からすれば、この「小屋根付」は通常の家屋よりも、格式が高いようである。 従って、七尾町家の建築的特色をこの「小屋根付登梁」に見出すことは間違いないと考える。 七尾の豊かな繁栄と誇り高い庶民気質が、こうした七尾町家の特色を創出したと言えよう。

五、七尾町家・町並みと青柏祭

六、七尾の近代建築と町並み

幕末・明治維新の激動は、一地方に過ぎない能登の七尾へも波及してきたのである。 それは、七尾港における藩の軍艦所・語学所の設置であり、七尾庶民 の生活に与えた影響も多大であったろう。 建築史の視点から見れば、軍艦所・語学所の施設群はもちろんのこと、七尾に約半年間滞在した語学教師オズボンの 「住まい」などは殊のほか注目に値する。 しかし、これに関する建築史的資料は殆ど現存していない。 なおこの後、伝統的な町家の建ち並んだ七尾の市中 へ、洋風の建物が徐々に現れ始めた。

ところで、日本近代建築史の系譜の捉え方は、下記の図①のごとく、幕末から太平洋戦争終結までを「近代建築」と一般的に考えられている。 さらに下図 ②にあるように、かかる近代建築は五段階に区分して詳細に捉えられる。 まず最初は、幕末の外国人居留地(横浜・長崎等)での異人館建築を「西洋館建築」 と称し、一時的に滞留した外国人が、在地の大工職人に命じて建てさせた建築物である。 七尾の軍艦所・語学所はこれに属する。

〔Ⅰ〕           幕末・近代から現代までの建築様式区分
  幕末・明治・大正・昭和Ⅰ(~1945)  昭和Ⅱ(~1968)  昭和Ⅲ  平成~
近代建築(5項目)  戦後建築  現代建築
モダニズム ポストモダン

 

〔Ⅱ〕            「近代建築」の詳細区分(5項目))
①「西洋館建築」 幕末、外国人居留地でのコロニアル・スタイルの異人館建築。
②「擬洋風建築」 明治前期、大工職人見よう見まねで創作した建物。
③「洋 風 建 築」 明治中期以降、外国人や日本人の建築家による本格西洋建築。
④「看 板 建 築」 大正末・関東大震災後、、商店の外観に表れた庶民的デザイン。
⑤「近代和風建築」 明治以降、近代的な造形感覚による新しい和風様式。

 

〔Ⅲ〕       大工職人の伝統技術(和風)  ⇔ 欧米の建築技術(洋風)
日 本(和風) 西  欧(洋風)
建築材料 木     材  石材・煉瓦・鉄・コンクリート・ガラス
建築技術  大工道具(手)  工場での機械生産・科学技術
主な建物 社 寺・城 郭  市庁舎・学校・病院・駅舎・商店・教会
デザイン 木 割 寸 法  黄金分割・比例体系・オーダー
設 計 者 棟 梁・職 人  建築家・職人

 

  続いて、外国人居留地での建築を見て知った地方の大工職人が、地元へ帰って見よう見まねで創作したものを「擬洋風建築」と呼 んでいる。 一見して洋風に見えるものの、細部には和風の伝統意匠が多く混在しており、さらに骨組や工法も従来のままである。 しかし当時の職人によるユ ニークな独創性や伝統技術の高さを知る上で貴重なものと考えられている。

また明治中期以降には、外国人建築家を招聘して、純粋な西洋建築を建てさせたり、日本人を建築家として育成させるなど積極的な政府の欧化政策が展開した。 これらの本格的な建築を「洋風建築」と呼んでいる。

このほか、明治以降の近代的(西洋的)な造形感覚に刺激を受けた新たな和風建築を、「近代和風建築」と称している。 さらに大正末の関東大震災・復興期には、商店の外観を飾った通称「看板建築」が、庶民感覚による素朴なデザインと高度な伝統技術を特徴として誕生した。

このような日本の近代建築は、五つのグループによってほぼ捉えることが可能である。 さらにそのうえで、和風と洋風のそれぞれの建築技術を詳細に比較 してみるとき、上図Ⅲにあるような材料や工法などによって外観上のデザインが大きく違ってくることも考慮に入れる必要があろう。

現在の七尾旧市街地に僅かに残存する近代建築は、明治以降の激動する時代趨勢を背景に、伝統町家による町並みの中で創り出されてきたものである。 こ の七尾の近代建築を町並みとの関わりから考えるに当たって、まず五つのグループ区分から歴史的に位置づけ、和風と洋風の比較からデザイン的な特徴を見出す 必要がある。
それを以下に整理しつつ紹介する。

七尾の歴史的町並みの近代化 「市街地図」の変容を読む

七尾の近代建築に続けて、都市中心部の近代的変容についても少し触れておきたいと思う。 明治以降、城下町や宿場町など歴史的構造を有した都市中心部 の旧市街地は、新たな行政・軍事・教育・商業施設等の建設によって大きく変貌するとともに、さらに鉄道建設は大規模な都市構造転換を導き、その後の近代都 市計画の方向性を決定づけることとなった。

七尾の場合も、明治31年の七尾線開業は、それまでの交通認識を一変させただけでなく、経済的価値観や生活様式にまで多大な影響を与えたことは想像に 難くない。 しかし下図に提示した明治42年の七尾町全図に明らかなごとく、 当初の七尾停車場は旧市街地から南東方向に離れて建設(旧東部中学校付近) されたため、近世から続いた東西軸を骨格とした都市区域の様相を大きく変えるには到らなかったようである。 ただの二度の大火後、防火目的として川渕の東 側(桧物町)に波止場から南下する道路を貫通させたことが、東西に長く連ねた歴史的町並みを分断する最初の要因になった。 その後奥能登へ鉄道を延長する 目的から、 七尾停車場の位置を大正14年に現在地へ移転させたことで、波止場と結ぶ川淵通りが拡大整備されて誕生した。 この「近代制」としての川渕通 りは、それまでの東西を結ぶ「歴史軸」と複合することで、現代へ繋がる新たな都市骨格構造となった。
(下図Ⅱ)

 

七、おわりに  ・・・七尾の「歴史を生かしたまちづくり」へ向けて

冒頭から既に問題提起したように、われわれ日本にとって21世紀における都市のあり方とは、ヨーロッパ諸国の好例が如実に物語るように、自然環境にや さしく歴史的情緒豊かなまちづくりによって実現できるのではなかろうか。 従来の近代的合理主義による都市開発が、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す あまり、「物理的」な利便性・画一性は達成されたものの、その反面、地域固有の特色であった歴史的町並みや自然環境の破壊が「精神的」貧困による心の不安 感を導いたことは最早否定できない。 こうした近代都市計画の「負の遺産」からいち早く脱却して、新しい時代に相応しい地域独特のまちづくりに向けて前進 すべきではなかろうか。

そこで、ふるさと七尾の未来を真摯に思うとき、まずは従来のあり方を検討した上で、再び地域の歴史遺産に眼を向けるべきであろう。 今後の高齢社会や 環境汚染の問題に対応し、心の安らぎや生活の豊かさを実現するためのプロジェクトとして、伝統町家や近代建築等の保存活用による「歴史を生かしたまちづく り」は何よりも有効な手段である。 それに向けた第一歩として、本稿「七尾の歴史的町並み」が役立つことを切望したい。

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本稿は、昨年から本格的に取りかかり継続中の町並み調査研究の成果の一部である。 この一年間で、七尾の旧市街地における重要な伝統町家と近 代建築のリストアップ、さらに外観調査がほぼ終えた。 調査を進めるにあったて、ご指導いただきお世話になっている写真家・間蔵俊甫さんに、この場をお借 りて深くお礼を申し上げたい。 この調査研究は、真蔵さんとの共同作業による賜物に他ならない。

またこの八月から九月にかけての文化講座「七尾の町並み文化」(全三回)(七尾市立図書館・図書館友の会主催)では、講義のほかに町並みウオッチン グ・路上観察も取り入れたことで、多くの市民の皆さんとの温かい触れ合いからいろいろ学ばせていただいた。予想以上の好評を得ることが出来たことも合わせ て、関係者の皆さんに改めて感謝申し上げます。

七尾の町並み調査研究は、未だ始まったばかりで、まだまだ多くの課題が残され手います。 これからは、さらに町家・近代建築の内部調査へと進めるとと もに、これらの保存活用による「歴史を生かしたまちづくり」の実践へ向けて、市民の皆さんに少しでもご理解いただけるように、さらに行政とのパートナー シップを得られるように、誠実に着実に取り組んで努めていきたいと考えています。 どうかご協力をお願い致します。

さて皆さん、歴史的町並みについて一緒に勉強してみませんか。ご関心のある方やご意見のある方、ご遠慮なくご連絡いただければ幸いです。

主要参考文献
①古田桂二「町並み・家並み事典」東京堂出版 昭和61年
②大河直躬「歴史的遺産の保存とまちづくり」学芸出版社 平成9年
③「金沢市史 資料編⑰建築・建設」金沢市 平成10年
④吉田純一「ふくいの建築」福井県文化振興事業団 平成13年
⑤「目で見る七尾の百年」七尾市 昭和44年
⑥田中政行編「ふるさとの思い出 七尾」国書刊行会 昭和59年
⑦中村敏昭編「ドキュメント青柏祭」青柏祭協賛会 平成4年

筆者プロフィール
昭和43年生まれ。七尾市出身
七尾市立東部中学校卒後、国立石川高専・豊橋技術科学大学を経て、
ドイツ研究留学。その後福井大学大学院を終了し、工学博士を取得。
1997年より福井大学工学部建築建設工学科助手に着任
専攻は建築史・日独比較都市論。 現在、福井工業大学 講師
現住所=福井県鯖江市神中町三丁目9-20